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ナイトカルチャー

シティポップの再評価は、誰のノスタルジーなのか

要点 / TL;DR

  • 1970〜80年代の日本のシティポップが、ストリーミングと動画経由で海外を中心に再評価された
  • 当時を知らない世代にとって、それは「記憶のない懐かしさ」という奇妙な感情として受け取られている
  • 国内の再評価は、海外人気の逆輸入という側面が強い
  • もっとも、再ブームの中心にいるのはリスナーであって、必ずしも作り手の意図ではない

深夜のドライブで、四十年前の曲が流れる。シンセの音色も、コーラスの重ね方も、いまの耳には新しく聞こえる。だが作られたのは、私が生まれるよりずっと前だ。シティポップと呼ばれるこの音楽を、私は同時代の体験として知らない。にもかかわらず「懐かしい」と感じてしまう。この感情の正体を、少し考えてみたい。

かつてのシティポップと、いま再生されるシティポップ。同じ音源でも、聴かれ方はまるで違う。両者を並べると、再評価という現象の妙な構造が見えてくる。

かつて:都市の生活を歌うBGM

一九七〇年代後半から八〇年代、好景気を背景に、洗練された都市生活を描くポップスが数多く作られた。海辺のドライブ、夜の街、洒落た恋愛。それは当時の聴き手にとって、自分たちの生活の延長か、手の届きそうな憧れだった。音楽は生活の文脈の中にあった。

いま:文脈を抜きに、音だけが旅をする

現在の再評価は、まったく別の経路をたどった。きっかけの多くは海外のリスナーで、動画サイトのおすすめや、ストリーミングのプレイリストを通じて、古い日本の曲が国境を越えて広がった。日本経済新聞をはじめ複数のメディアが、この「海外発の再発見」とその後の国内への逆輸入を報じてきた。重要なのは、聴き手が当時の日本の生活文脈をほとんど知らないまま、音そのものを受け取っている点だ。

つまり、いまのシティポップ人気は、当時の記憶の継承ではない。記憶のない場所で、音だけが自律的に旅をしている。そこで生まれる「懐かしさ」は、過去の追体験ではなく、聴いた瞬間に新しく合成される感情だ。心理学や文化研究でいう「アネモイア(経験したことのない時代への郷愁)」に近い。

誰のノスタルジーか

ここで問いが立つ。この懐かしさは、いったい誰のものなのか。作り手のものではない。当時を生きた世代のものでもない。むしろ、過去を持たない世代が、過去のフリをした新品の感情として消費している、と言ったほうが近い。もっとも、それを「本物でない」と切り捨てるのは早計だろう。昭和の横丁が令和の客で埋まるのと同じで、当事者でない者が古いものに新しい意味を見出すこと自体は、文化の更新としてありふれている。

裏を返せば、再評価の主役が作り手ではなくリスナーだという点に、この現象の現代性がある。誰かが意図して仕掛けたブームではなく、無数の再生が偶然積み上がって輪郭を持った。アルゴリズムが運んだ音を、世界中のばらばらの個人が「懐かしい」と感じる。その懐かしさの出どころは、本人にも説明がつかない。

ドライブの曲が次に変わる頃、私はもう作られた年代を気にしなくなっていた。音が良ければ、過去も現在もない。記憶のない懐かしさは、たぶん嘘ではない。ただ、その正体を「懐かしさ」という古い言葉で呼び続けるのが、少し追いついていないだけなのだろう。

参考・関連

  1. 日本経済新聞 — シティポップの海外再評価と国内への影響に関する報道
  2. 各音楽配信プラットフォームの公開プレイリスト動向(一般報道に基づく)

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