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ストリート

磨かれた広場とスケーター——再開発された「広場」のあいだで

要点 / TL;DR

  • 再開発で生まれた「きれいな広場」は、スケーターにとって滑れる場所とは限らない
  • 滑走を防ぐ突起やベンチの設計は、意図せずスケート文化の居場所を削る
  • 一方で公式のスケートパーク整備も進み、住み分けが少しずつ形になりつつある
  • 「邪魔者」か「文化」かの線引きは、街がどんな多様性を許すかという問いに直結する

夜の十時を過ぎると、渋谷の再開発エリアは表情を変える。昼間の買い物客が引き、磨かれた花崗岩の段差に、デッキの「ガッ」という着地音が響きはじめる。スケーターたちは、誰に教わるでもなくこの時間を選ぶ。人が少なく、警備員の巡回の合間が読める時間帯だからだ。

私はスケートボードに乗らない。だから以下はあくまで、街の段差を別の目で見ている人々を、外から眺めた記録にすぎない。それでも、磨かれた広場とスケーターのあいだに走る緊張は、乗らない者にもはっきり見える。

「滑れない設計」という静かな排除

再開発でできた広場には、たいてい滑走を妨げる工夫が施されている。手すりに等間隔で付けられた金具、縁石の角に埋め込まれた突起、傾けられたベンチ。建築や都市計画の分野では「ホスティル・アーキテクチャー(敵対的設計)」と呼ばれ、朝日新聞などの一般紙でもたびたび取り上げられてきた概念だ。野宿者を眠らせないためのベンチと、スケーターを滑らせないための縁石は、思想として地続きにある。

ここで難しいのは、その設計が悪意の産物とは限らないことだ。管理者には、石材の摩耗や転倒事故の責任という現実的な事情がある。滑走音への苦情も無視できない。誰かを名指しで排除しているつもりはなく、ただ「想定外の使い方」を消しているだけ——という言い分には、一定の筋が通っている。

公式の場所は増えた、が

一方で、自治体による公式のスケートパーク整備はこの数年で確実に進んだ。国際大会での日本選手の活躍以降、スケートボードを健全なスポーツとして受け入れる空気は強まっている。スポーツ庁や各自治体の動きは、NHKの地域ニュースでも繰り返し報じられてきた。滑る場所が公的に用意されること自体は、歓迎すべき変化だ。

もっとも、と街で会った滑り手の一人は言いたげだった。整備されたパークは安全だが、面白いとは限らない。ストリートの魅力は、本来そこにある段差や手すりを「滑るもの」として読み替える視点にある。用意された滑走面だけを滑るのは、街を読む遊びの半分を手放すことでもある。囲い込まれた安全と、街に染み出す自由は、簡単には両立しない。

誰の街か、という問い

私が見ていた夜、若いスケーターが一度だけ警備員に声をかけられた。彼は素直にデッキを抱え、隣の暗がりへ移動した。怒鳴り合いにはならない。互いに、この攻防が日課であることを了解しているようだった。排除と滲み出しが、低い温度で毎晩繰り返されている。

磨かれた広場は美しい。だがその美しさは、特定の使い方だけを許すことで保たれている。スケーターを邪魔者と見るか、街の使い手の一人と見るか。その線引きは、結局のところ「公共空間は誰のものか」という古くて新しい問いに行き着く。横丁が若者で埋まる夜のように、計画されていない使われ方こそが街を魅力的にする例もある。設計図の外側で起きることを、どこまで許容できるか。渋谷の段差は、その許容量を静かに測っているように見えた。

参考・関連

  1. 朝日新聞 — 公共空間における「排除アート/敵対的設計」に関する報道
  2. NHK — 自治体のスケートボードパーク整備に関する地域報道

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