「盛らない」SNSに疲れる十代——加工しない写真の不自由
要点 / TL;DR
- 「盛らない」ことを売りにしたSNSは、加工疲れへの反動として十代に受け入れられた
- だが「ありのまま」を毎日強制されること自体が、新しいプレッシャーを生んでいる
- 決まった時刻に通知が来る仕組みは、自然さを演出するための不自然さを抱えている
- もっとも、加工文化と無加工文化は対立ではなく、使い分けとして共存しつつある
「盛らない」写真共有が十代に広がっている、という話を友人から聞いた。長年、写真は加工して見せるものだったはずだ。その反動が来ているらしい。ちょうど高校生の姪と、その友人が遊びに来ていたので、率直に聞いてみることにした。以下は、その夜のやりとりをほぼそのまま再構成したものだ。
「加工しない」のに、なぜ疲れるのか
——最近の「盛らない」系のアプリ、使ってる?
「使ってる。でも正直、前より気が抜けないかも」
——気が抜けない? 加工しなくていいなら楽じゃないの。
「逆。決まった時間に通知が来て、その瞬間の自分を出さなきゃいけないの。寝起きでもバイト中でも。みんなが見るから、結局『どうでもよくない瞬間』を待っちゃう」
姪の友人が横から口を挟んだ。「『自然に見える自然』を作るのがいちばん難しいんですよ」。この一言に、私は思わず笑ってしまった。加工の有無の問題ではなく、見られることそのものから逃れられていないのだ。
無加工という、新しい体裁
——でも、ありのままを出すのが目的なんでしょ。
「目的はそう。けど『ありのまま』も体裁になる。散らかった部屋をわざと写すとか、『盛ってないアピール』が始まる。盛らないことを盛る、みたいな」
ここには、技術が人間関係を変えるときの典型的なねじれがある。総務省の情報通信白書が年々示してきたように、十代のSNS利用はもはや生活の一部で、どのアプリを使うかは人間関係の地図そのものだ。「盛らない」アプリも、その地図の上に置かれた瞬間、新しい見栄の文法を生む。問題は加工ではなく、常に他者の視線にさらされる構造のほうにある。
使い分けという落としどころ
——じゃあ、加工系のアプリはもう使わないの?
「使うよ。よそ行きの投稿は加工する。仲いい子とのやつは盛らない。場所で分けてるだけ」
この答えは示唆的だった。無加工と加工は、どちらが勝つかという話ではない。相手と場面によって着替えるように使い分けられている。ITメディアやビジネス系媒体は「BeRealの台頭で加工文化が終わる」といった論調を一時期掲げたが、現場の十代はもっと冷めていて、両方を道具として持っているだけだった。
裏を返せば、彼らは「どの自分をどこで見せるか」を、私たちの世代よりはるかに細かく設計している。それは不自由にも、成熟にも見える。生成AIとファンアートの揺れと同じく、デジタルの道具が変わるたびに「本物らしさ」の基準だけが先回りして問い直されていく。
姪たちが帰ったあと、私は自分のSNSを開いて、数年前の加工した写真を見返した。あの頃の私も、ありのままから逃げ、いまの彼女たちも、ありのままに追われている。道具が変わっても、見られることへの落ち着かなさだけは、世代を越えて変わっていないらしい。
参考・関連
- 総務省「情報通信白書」 — 若年層のSNS利用動向に関する記述
- ITmedia 等のテクノロジーメディア — 写真共有アプリのトレンドに関する報道