裏原の古着屋を歩いて分かった、いまの十代の財布事情
要点 / TL;DR
- 裏原宿の古着店は「安いから買う」場所から「探すこと自体を楽しむ」場所へと性格を変えつつある
- 十代の客単価は下がっても来店頻度は上がっている、という店主の体感がある
- フリマアプリの普及で「相場」が可視化され、値付けの自由度は狭まった
- ただし希少なヴィンテージほどアプリの相場が効かず、店頭の交渉が残る
土曜の午後一時、明治神宮前の交差点を一本入ると、急に音の質が変わる。表通りの観光客のざわめきが遠のき、雑居ビルの二階から漏れるヒップホップの低音と、ハンガーがレールを擦る「しゃっ、しゃっ」という音だけが残る。私は十年ぶりにこの界隈の古着店を一日かけて歩いてみた。目的は単純で、いまの十代が古着に何を払っているのかを、自分の目で確かめたかったからだ。
結論から言えば、私が想像していた「安いから古着」という図式は、もう半分しか当たっていなかった。
「探す時間」に値段がついている
最初に入った店は、間口の狭いビルの三階にあった。Tシャツが一着千五百円から、デニムが四千円台。安くはない。レジ前で十六、七歳に見える二人組が、色あせた無地のスウェットを手に取って十分近く迷っていた。結局、片方だけが買い、もう片方は写真だけ撮って棚に戻した。
店主に話を聞くと、こうした光景はここ数年でむしろ増えたという。一着あたりの単価が劇的に上がったわけではない。変わったのは、来店の頻度と、店内に滞在する時間のほうだ。ファッション業界メディアのWWDジャパンが繰り返し報じてきたように、国内のリユース・古着市場はこの十年で着実に拡大してきた。その裾野の広がりが、原宿のような「探す前提」の街に厚みを与えている、というのが店主の見立てだった。
裏を返せば、十代にとって古着屋は買い物の場所であると同時に、友人と過ごす午後の「居場所」になっている。何も買わずに二時間いても咎められない空気がある。これは新品を扱う商業施設では成立しにくい時間の使い方だ。
アプリが相場を可視化した
もう一つ、明らかに変わったのが値付けだ。三軒目の店主は、フリマアプリの普及で「言い値」が通らなくなったとこぼした。客はその場でスマートフォンを開き、同じブランド・同じ年代のものがいくらで取引されているかを確認する。総務省の情報通信白書でも触れられてきたとおり、十代のスマートフォン利用はほぼ全員に近い水準にあり、店頭での価格交渉は「相場との照合作業」に近づいている。
ただし、と同じ店主は付け加えた。本当に数の少ないヴィンテージになると、アプリ上に比較対象そのものが存在しない。そうなると相場は機能せず、最後はモノを見る目と、その場の交渉に戻る。安さを競う層と、希少性に払う層とで、同じ「古着」という言葉の中身がはっきり分かれてきている。
「持続可能だから」は後づけか
環境配慮を理由に古着を選ぶ、という説明は取材の中で何度か聞いた。もっとも、十代の口からそれが最初に出てくることは少なかった。先に「これ、いま誰も持ってないでしょ」があり、環境の話は後から接ぎ木される。私自身、十代の頃に古着を選んだ動機は単に小遣いが足りなかったからで、立派な理由など後づけだった。その記憶があるぶん、彼らの「後づけ」を笑う気にはなれない。
夕方五時、最初の店に戻ると、昼に何も買わなかったほうの少年が、別の友人を連れて再びスウェットの前に立っていた。今度は買うのかもしれないし、また写真だけかもしれない。原宿の古着店は、即決を迫らない。その「迫らなさ」こそが、新品の小売とは違う価値として残っているように見えた。スニーカー転売の熱が冷めた話とも通じるが、十代の消費は「所有」よりも「関わる時間」へと重心を移しているのかもしれない。
古着が安いだけのものなら、相場が透けて見えた時点で街は痩せていたはずだ。それでも土曜の路地が埋まり続けるのは、値段以外の何かが取引されているからだろう。その何かを、店主たちはまだ言葉にしきれずにいた。
参考・関連
- WWDジャパン — 国内リユース・古着市場に関する継続報道
- 総務省「情報通信白書」 — 年齢層別のスマートフォン利用に関する記述